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朝食がつかないので、
受付にあるコーヒーを貰ってきて
昨夜持ち帰ったパン風のお菓子を食べました。
中は空で、ジャムとか蜂蜜をつけると美味しい
と聞いた理由がわかりました。
これだけで食べても余り美味しくありません。
モ-テルで、朝氷は取れなくなっていました。 |
ルート66の沿線からだとホルブルックから南下したところに、フォート・アパッチ居留地があり、
その南にサン・カルロスアパッチ居留地があります。どんなところか、行ってみることにしました。
途中スーパーで買い物をして、ついでにアロエクリームを買いました。
昨日から手が乾燥でガサガサになっていたのが、アロエクリームを塗ったとたん、あっ、直った! |
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アパッチ砦という映画がありました。まだ、見てないのですがーーー。
アパッチ砦とは、アパッチが本拠地にしていたところなのか、それともアパッチの攻撃から
いわゆるヨーロッパからの移住者を守る騎兵隊の駐屯場所か、どちらかなーと思ったのですが、
後者であると分かりました。常識だったのかもしれません。
アメリカの先住民は、定住する部族と遊牧民の部族があって、アッパッチは遊牧民であり、戦士でした。
本拠地など持たなかったのです。
騎兵隊が駐屯したアパッチ砦が居留地の名前になっています。 |
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気持ちの良い、住みやすそうなところです。
アメリカ政府は、先住民に居留地を与えたのですが、住みよい豊かな土地を得た部族もあれば、
そうでない部族もあるようです。また、先祖伝来の土地には住めなくなって、
今もアメリカ政府に居留地の変換を要求している部族もあると聞きました。
Show Lowで道を間違えて、戻って、260号線でやっとフォート・アパッチに着きました。 もちろん、アパッチ砦そものもは、現存しません。 |
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フォート・アパッチにあった学校です。
先住民には、
先住民の部族の数だけ言語があったそうです。
ヨーロッパ人の侵略で、消滅した部族もあったようですが、
言語も失われているのかもしれません。
しかし、こういう居留地の学校では、
英語とアパッチ語の両方で
授業が行われていると聞いたことがあります。
因みに、かつて先住民は違う部族と手話で
会話していたそうです。
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前方にアパッチが住んでいる住宅が見えました。下は拡大写真です。
平屋が多いように見えます。 |
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フォート・アパッチ博物館があったのですが、残念なことに土日は休館でした。
未練がましく博物館の周辺を回っていると、アメリカ人の年配のご夫婦もやってきて、一緒に残念がりました。
居留地には自治が認められていて、彼らの警察、彼らの政府等があると教えてくれました。
そのご夫婦がソルト・リバー・キャニオンを通ってきたけれど、とてもよかったよと勧めてくれたので
私たちも行くことにしました。
博物館の庭にアパッチのかつての住居と石の迷路が作ってありました。上の写真です。 |
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車で移動中に写した居留地の住宅です。
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Knishba Ruinsというのが地図にあったので、見に行きました。
残念なことに、これも中に入れず、遠くからみるだけでした。
1100年から1300年ころ2000人の人が住んでいたということしか分かりません。 |
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ソルト・リバー・キャニオンがフォートアパッチ居留地とサン・カルロス・アパッチ居留地の境界です。
ソルト・リバー・キャニオンに向かう途中に富士山のような山がありました。 |
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ソルト・リバー・キャニオンに向かう途中の住宅です。
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ちょっと見慣れない乗り物に乗った人がいました。
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アパッチ居留地にもキリスト教が入ってきたのですね。 |
途中、ガス・ステーションに寄ったところ、ビーズ・アクセサリーを売っていました。
ほとんどがナバホだったのですが、嬉しいことにアパッチのネックレスがありました。
ちょっと色が好きではなかったのですが、買いました。
後になって、本当にアパッチの作品だったかと心配になりましたが、
ずーっとつけていて、同じようなものをナバホが売っていないかチェックしました。
知り合ったナバホの人が、そのネックレスはナバホのものではないと言ってくれたので
今は本当にアパッチ作りだと信じています。 |
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